プロフィール

大企業の城下町で生まれる

1976年10月、千葉市(現中央区)に3人の兄弟の長男として生まれました。父は核兵器廃絶・平和団体の役員、母は看護師として働いていました。
子どもの遊び場になるような空き地や林があり、近所の友達とよく外で遊んでいました。
父も活動で多忙であり、母は看護師で夜勤もありました。私がちょっと歳の離れた弟たちの世話をする事も多かったです。ケンカをすることもありましたが、いい思い出です。近くには川崎製鉄(現JFEスチール東日本製鉄所)の工場があり、夜ともなれば溶鉱炉の火で空が赤く染まっていたことを覚えています。煤煙(ばいえん)・粉塵(ふんじん)などの大気汚染にたいし、母たちが裁判(あおぞら裁判)をたたかっていたことは、いまも私の胸に刻まれています。

ひらがなが書けない子ども

小学校に入学したとき、「平仮名」がまったく書けない子どもでした。担任の先生が放課後、私ひとり残し一生懸命教えてくれました。これがなかったら、その後の「私」はなかったかもしれません。先生の静かな情熱にふれ、「教育」が持つ可能性を強く実感しています。
中学生のとき、教師になることを意識し始めました。担任の先生が「型破り」というか、「なにが大事なのか」を考えることがたびたびありました。

仲間と力をあわせる喜び

高校は、君津市にある千葉国際高校(現・翔凜高校)に入学しました。
中高一貫の新設校で、私たちが第一期生。入学した年には、高校・中学とも、一年生しかいませんでした。体育祭や文化祭などの行事もまったく初めて。先生や同級生、後輩たちとすべてゼロから作りました。みんなで力をあわせていく喜びを得ることができました。
中学・高校とも陸上競技部です。中距離ランナーとして、800mや1500mを走っていました。高校生のときは、君津駅から学校まで走って登校したこともありました(荷物はスクールバスで行く友達に預けて)。今でも、月2回くらいは時間を見つけて走っています。

一人ひとりの可能性を発揮できる社会へ=入党の原点

大学進学は、教師をめざしつつ、「自宅から通え、学費が安い大学」と考えました。
大学では小学校と中学校社会科、高校社会科地歴・公民の免許もとりました。
1年生の時に日本共産党に入党しました。「一人ひとりが、可能性を発揮できる社会」をつくりたい――これが初心です。共産党が衆議院でも参議院でも躍進する前の1995年、まだソ連・東欧の崩壊の影響が残っていたときでした。

教室にエアコンを~仲間とともに署名あつめる

当時、7月いっぱいまでカリキュラムがあったにもかかわらず、教室にエアコンがありませんでした。高層校舎に挟まれた低層の教室は、窓を開けても風が通らず、測定したら温度は40℃超!! 「教室にエアコンを」という学生の願いを形にしようと、エアコン設置を求める署名を呼びかけ、短期間でたくさん集まりました。教授会に提出し、その後少しずつですがエアコン設置がすすみました。

 

進路になやむ日本の政治の”貧しさ”を実感

大学3年の時、キューバでおこなわれた世界青年学生祭典に参加しました。これは今でも心に残っています。高学費や競争教育、過労死などを英語でスピーチしたのですが、「学費が高い」とか「働きすぎで命を落とす」とか、ほとんど理解してもらえませんでした。海外から参加している青年にとっては、まったく常識外だったのです。世界の視点から日本を見たとき、政治の”貧しさ”を強く実感した瞬間でした。
この経験は、教師になるのか、それとも政治変革の道にすすむのか――どう生きるのか考えるきっかけになりました。日本の子どもたちが自らの可能性を発揮できる社会をつくりたい、その思いからだんだん政治を変えるという道がはっきりしてきました。

学び、働き方、平和-若者が全力投球できる社会へ政治を変える仕事に

大学卒業後、日本共産党の職員になりました。主に青年学生分野の活動を15年にわたって担当しました。三つのことに力を入れてきました。
一つは、だれもが安心して学べる環境づくりです。学費値下げ・奨学金拡充を求める署名を毎年集め、国会に届けました。世界と比べても学費が高すぎること、奨学金がないことを話し、だれもが安心して学べる日本にしようと訴えてきました。文部科学省だけでなく、ときには財務省にも、深夜までアルバイトし、授業中に寝ていること、片道2時間も3時間もかかって通学していることなど、学生の実情をぶつけてきました。

二つ目として、脱貧困のとりくみです。
2008年のリーマンショックの少し前、若者の「日雇い派遣」労働が社会的問題になりました。朝早く西船橋駅近くのバス待ちの場所に行くと、いくつかの列がありました。最初は、私たちもおっかなびっくり、相手も不思議そうに見ている。そのためまったく声を聞けませんでした。くり返し通ううちに顔見知りになり、半年ほどで100人分のアンケートを集めました。
塾や予備校に通えない子どもたちを対象に無料塾にもとりくんできました。自分のペースで、自分が納得するまで何度でも質問できると好評で、学力をグングンつけて志望する学校に進学した子どもたちの喜びにふれることができました。

三つ目は、核兵器廃絶や反戦のとりくみです。
毎年、広島や長崎で開催される原水爆禁止世界大会に若者たちと参加し、街頭や集合住宅で呼びかけた折り鶴に一つひとつ糸を通し、持っていきました。被爆者の平均年齢は80歳を超えています。「被爆体験を聞ける最後の世代」という自覚で、被爆者の「生きているうちに核兵器をなくしたい」という願いを胸に刻んでいます。
2003年のイラク戦争前夜、「戦争反対」と訴えた数千、数万のデモが地球をつつみました。私もそのうちの一人として、学生と4人でデモしたことも。「戦争では紛争は解決できない」――外交努力こそ問題解決の近道だと実感しています。

朝ごはんづくりに頑張るお父さん

29歳の時に結婚し、3人の子ども(女・女・男)がいます。妻も保健師として働いています。父親として担うべき(家庭内の)仕事もしっかりやっています。
帰宅が遅く、子どもたちが寝てからというときもたびたびです。存在感が薄くなっていくのでどうしたものかと妻に相談すると「朝ご飯をつくったら?」とのアドバイス。それならと朝ご飯をつくるようになりました。
時々新しいメニューに挑戦しますが、子どもは正直です。気に入らないと、とたんに食べるスピードが遅くなります。逆においしいときは早いです(笑)。おいしそうに食べているときの顔をみるのはうれしいです。

『国民主権』の新時代へつどいでの対話を力に

今度の参議院選挙は、野党も日本共産党も議席をふやし、安倍政権にかわる、野党連合政権への道をひらく選挙です。
自民党政治の問題点を追求するとともに、解決策を提案する力が求められています。
みなさんとの対話を通して民主的改革を進める力をつけたい!
地域で開催されるつどいでは、政治のこと、政策のこと、共産党のこと、私自身のこと等たくさんの質問がよせられ、私自身もとても勉強になります。